新しいことを始めようとするとき、頭の中で、小さな声がする。
——もう、遅いのではないか。
その声は、たいてい正しいことを言っているような顔をしている。若い頃のように時間はないし、覚えるのも遅くなった。これから何かを始めても、それが実るころには、ずいぶん年を取っているだろう。声は、そう囁く。
五十代になると、この声は、前より大きくなる。
けれど最近、ふと思うようになった。その声に、一度きちんと向き合ってみたい、と。
「もう遅い」という言葉の中身を、ちゃんと確かめたことが、私にはまだ一度もなかった。
「もう遅い」と、私たちは言う。
けれど、よく考えてみると、これは少し奇妙な言葉だ。
遅い、というからには、どこかに「間に合う時刻」があるはずだ。電車に遅れる、というときには、発車時刻がある。約束に遅れる、というときには、約束の時間がある。基準があるから、遅れることができる。
では、「新しいことを始めるのに、もう遅い」と言うとき、その基準は、どこにあるのだろう。
何歳までに始めれば間に合って、何歳を過ぎたら間に合わないのか。そんな時刻表を、私は見たことがない。誰も持っていない。それなのに、私たちは「乗り遅れた」と感じている。
存在しない時刻表に向かって、遅刻している。
そう気づいたとき、少しおかしくなった。
もちろん、現実的な制約はある。体力は若い頃と同じではないし、覚えたことを忘れるのも早い。残された時間が、二十代より短いのも本当だ。それは認めなければならない。
けれど、「制約がある」ということと、「もう遅い」ということは、同じではない。
制約は、条件だ。その条件の中で、何ができるかを考えることができる。 「もう遅い」は、結論だ。考えることを、そこで終わりにしてしまう。
私はずっと、条件を、結論と取り違えていたのかもしれない。
「もう遅い」が結論ではなく、ただの思い込みだとしたら。
そう考えてみると、見えてくるものがある。
新しいことを始めるとき、私たちは無意識に、若い頃の「始め方」を思い浮かべている。何かを志して、長い時間をかけて習熟し、いつかそれで身を立てる——そういう、人生をかけた「始め方」だ。
その基準で測れば、五十代の出発は、たしかに遅い。残りの時間で、その道のりを走りきるのは難しい。
けれど、始め方は、ひとつではない。
何かを身につけて、それを誰かに見せられるようになるまで——そういう大きな弧を描かなくても、人は何かを始められる。
ただ、知らなかったことを、ひとつ知る。 できなかったことが、少しだけできるようになる。 昨日まで関心のなかった世界に、小さな入口を見つける。
それも、立派な「始める」だと思う。
そして、この種類の「始める」には、年齢の制限がない。八十歳でも、九十歳でも、人は何かを知り、何かに触れることができる。実るかどうかを問わなければ、始めることに、遅すぎるということはない。
若い頃の私は、「始める」を、いつも「成し遂げる」とセットで考えていた。始めたからには、何かにならなければいけない、と。
五十代の今、その重さを、少し下ろしてみたいと思う。
成し遂げるためでなく、ただ、世界をもう少し知るために、始める。 そういう始め方も、あっていい。
頭の中の「もう遅い」という声は、たぶん、これからも聞こえてくる。
その声は消えないし、消さなくてもいいのだと思う。年齢にともなう制約は、本物だからだ。
ただ、その声を「結論」として受け取るのは、もうやめにした。
私は今、小さな何かを始めようとしている。それが何かは、また別のときに書こうと思う。成し遂げられるかどうかは、正直、わからない。けれど、わからないまま始めることを、もう怖いとは思わなくなった。
世界には、私がまだ知らないことが、たくさんある。
その入口の前に立つのに、五十代は、遅すぎる年齢ではない。
たぶん、何歳でも。