「ちゃんとしなきゃ」という声と、並んで歩く

何もしない一日が、好きだ。
予定もなく、誰にも会わず、ただ静かに過ごす時間。そういう日は、自分が世界と少しだけ距離を取れる、貴重な余白のようなものだと思う。
許されるならずっとその余白の中にいたい、と思う人は、きっと少なくない。
けれど、そうもいかないことを、五十年も生きていれば知っている。
何もしない日々がただ重なれば、生活は静かに傾いていく。時間というものは、流れていることに気づかれないまま、確かに流れていく。十年後にふりかえってーー何もなかった、と思いたくはない。
だから私は、動くことにした。
好きなものを手放すためではなく、好きなものを長く大切にできる自分でいるために。

動こうとすると、不思議なことが起きる。
肩に、力が入る。
ほんの少し手を動かすつもりが、いつのまにか必要以上のところまで行ってしまう。やめどきが、わからない。そして一日の終わりに、こちこちになった体を持て余しながら、ふと思う。
ーー今日も、ちゃんとできなかった。
そんな声が、どこからともなく聞こえてくる。
不思議なのは、その声には根拠がないということだ。誰かを困らせたわけではない。何かが滞ったわけでもない。それでも声は、まだ足りない、もっとできるはずだ、と繰り返す。
長いあいだ、私はこの声を、自分の真面目さだと思っていた。
けれど最近になって、別の輪郭が見えてきた。これは真面目さというより、もしかするとーー自分への、ささやかな不信なのではないか。
人は、自分を信じきれないとき、外側の基準にすがる。「ちゃんと」という言葉は、その代表のようなものだ。明確な定義もないまま、誰の声でもないのに、私たちのなかで響き続ける。
その声を疑ってみることから、何かが始まるのかもしれない。

声を疑いはじめると、何が起きるか。
劇的なことは、何も起きない。家のなかは相変わらず散らかっているし、肩には今日も力が入る。声もまだ、ときどき聞こえてくる。
ただ、声との距離が、ほんの少しだけ変わる。
以前はその声を、自分そのものだと思っていた。声が「まだ足りない」と言えば、私もそう信じた。声が「ちゃんとできなかった」と言えば、私もそう感じた。声と私は、同じものだった。
今は、少し違う。声は聞こえるけれど、それは私の一部分が出している声であって、私のすべてではない、と思えるようになった。声に同意しないという選択肢が、自分のなかにあることを知った。
これは、たぶん小さなことではない。
長く同じ家に住んでいると、家具の位置を疑わなくなる。テーブルはここ、本棚はここ、と決まっている。それが当たり前になる。けれど、ある日ふと、テーブルを少し動かしてみると、部屋全体の空気が変わる。光の入り方が変わる。歩く動線が変わる。
自分のなかの声に「本当にそうだろうか」と問うことは、それに似ている。
家具が、絶対の位置にあるわけではなかった、と気づくこと。長年そこにあっただけで、動かしてもよかった、と気づくこと。
そう気づいた人の足取りは、たぶん、前より少しだけ軽い。

私は今も、何もしない一日が好きだ。
それは変わらない。たぶん、これからも変わらない。
ただ、その好きを長く大切にするために、少しずつ動くことを覚えはじめている。肩に力が入る日もあるし、声がまだ聞こえる日もある。それでも、声と並んで歩く感覚が、以前とは少し違う。
何かを大きく変えなくていい。
家具を、ほんの少しだけ動かしてみる。
そういう日々の重なりの先に、ふりかえったときに「何もなかったわけではなかった」と思える時間が、きっと積もっていく。